2001年10月18日, 木曜日
『何のために』
何故、空腹が満たされるわけでもないのに、寒さを凌げるわけでもないのに、人は音楽を愛するのだろう。歌を聴いて涙する人がいる。その時、何がその人に起こったのだろうか。最近では音楽療法というのがもてはやされている。痴呆を音楽で癒そうという試みもある。どこまで成果があるのかはわからないが、音楽が人に何らかの作用をもたらす事は医学的にも証明されているのだ。その音楽療法も聖書とは無縁ではない。音楽療法に関して、記録されている一番古い例は聖書の中にある。旧約聖書、サムエル記17章23節にこう記されている。「悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、弾き、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。」これはまさに音楽療法以外の何ものでもない。音楽の中にこんな力があるのだ。
世界のベストセラー聖書には音楽に関する記述がけっこう多いのをご存知だろうか。創世記4章20~22節にこんな記述がある。「アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は竪琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツイラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。」
これは人間の最も基本的な職業を記している。家畜を飼う仕事、これは衣食住のすべてに関わる大切な職業といえる。そして用具の鍛冶屋、これも人間が他の動物とは異なって、思考し、道具を用いるという人の特質に関わる大切な仕事だ。ここまでは理解できる。しかし、これらに比べてその意味を理解しにくいのが音楽家が登場することだ。それは、人とは、衣食住や道具が足りてもなお満たされない存在だという事ではないだろうか。
昔の哲学者が「人は心の中に神しか満たす事の出来ない空洞を持っている」と言った。私たちはどんなに豊かになっても、それだけでは満たされない虚しさがあることに気付く。衣食住が足り、職に恵まれても満たされない心が確かにある。人間が神を知り、神に帰る時初めて満たされるとしたら、音楽は人に神を意識させるためにあるのではないのだろうかと思う。僕は25年前にキリストを知り、神の元に帰った。それから神をほめたたえる新しい歌にも出会った。それは今迄、知らなかった音楽の世界だった。「神に出会う音楽」今、日本中でゴスペルを歌いながら神に出会う人々が起こされている。この力ある音楽に携われて僕は本当に幸せだと思う。