2007年1月30日, 火曜日
『失敗から学ぶ』
ナイフは危ないから気をつけろと言っているうちに、今では学校でも家でも子供達がナイフを使う機会がなくなってしまった。その結果、子供達はナイフで怪我をする事はなくなり「安全」を手に入れた。しかし、その一方でナイフで手を切るという小さな失敗をする経験を奪われてしまった。おそらく痛い経験をしていない子供はナイフがどれくらい危険なものかを理解できないまま成長する事になる。現代の風潮は「どうやって成功したか」「どうやったら正しい答えを導き出せるか」と言った具合にプラス要因に目を向けさせる傾向がある。マイナス要因には殆ど目を向けない。2002年に「失敗学会」を建て上げ、失敗学という新しい学問に取り組んでいる学者がいる。畑村洋太郎さんは東大工学部で学生に機会工学を教えていた。大学の授業で学生達に、ある問題に対して決まった解を出す「正しいやり方」を指導してきた。それが知識を身につけさせる上で最短かつ効果的だと考えていたからだ。しかし、結果として学生達が身につけたのは表面的な知識に過ぎなかった。実際に自分たちで考えて新しいものをつくらせようとすると、そうした知識は殆ど役に立たなかった。そこから模索して導かれた指導法が失敗から学ぶ失敗学と言うものだった。今の日本の教育は、決められた設問への答えを最短で出す方法、「こうすればうまくいく」「失敗しない」を学ぶ方法が重視されて来た。失敗はマイナスとしか見られず「回り道」「不必要なもの」「人から忌み嫌われるもの」「隠すべきもの」と言った負のイメージで受け取られて来た。「失敗は成功の母」という言葉は忘れられてしまっている。その畑村氏は、失敗を否定的に捕らえるのではなく、むしろプラス面に着目してこれを有効利用し、失敗から新たな知識を学ぼうというのが失敗学なのだと言っている。
失敗から目を反らさない。簡単なようだが失敗に目を向けるには勇気がいる。思えば、聖書は失敗から目を反らさないし、失敗を覆い隠さない。アブラハムもダビデも失敗をした。列王記などは失敗の宝庫だ。新約の弟子達も失敗した。初代教会にも様々な問題があった。今日私たちがそれを知りうるのは聖書が失敗を覆い隠さなかったからだ。意味がなかったら書かれてはいなかっただろう聖書こそ失敗学の原点と言えるのかも知れない。