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2000年7月18日, 火曜日

『バリアフリ-』

chus_0007.jpgレビドラマに木村拓哉と常盤貴子が主演の「ビュ-ティフル・ライフ」というのがあった。なにしろテレビドラマの視聴率記録を塗り替えた程の人気だ。人気の秘密はこのドラマが扱っている「バリアフリ-」というテ-マだろう。バリアフリ-とは障害をなくすという意味である。ハンディをもった常盤貴子に『僕が君のバリアフリ-になってあげるよ』という木村拓哉のセリフが若者から年配者まで広い層に感動を与えたらしい。あなたの行く所に障害があれば、自分が身を投げ出してでもその障害を取り除いてあげる、という言葉には誰だって感動しない人はいない。そこには優しさが溢れている。口だけの優しさではない、犠牲を伴った優しさだから感動するのだ。

て日本の教会はどうだろうか。身障者に配慮して教会堂を車椅子でも楽に入ることのできる段差の無い構造にしている会堂。すべての人に開かれた教会を目指して、先ず身障者に対してのバリア-を取り除くという配慮は素晴らしいと思う。しかし、果たしてそれだけがバリアフリ-なのだろうか。バリアはいろんな所に存在する。人々がクリスチャンや教会に対して思っている事の中にもバリアはたくさんあるのだ。クリスチャンになったら、いろんな事に束縛されて自由が無くなってしまうのではないか、教会に入ったら抜けられなくなってしまわないか、クリスチャンって先祖を大事にしないんじゃないか、教会にはいろいろな作法があって、それを知らないと居心地が悪くないか、クリスチャンと普通に話ができるのか、教会では信仰のわからない人は歓迎されないんじゃないか…等々。福音に触れる前にバリアがたくさんあって先に進めないのだ。

使徒のペテロがヨッパにいた時、カイザリアに駐屯しているロ-マの百人隊長から招待を受けた。普通だったらユダヤ人が異邦人を招いたり招かれたりすることはなかった。しかし、事前に神は夢の中でペテロに「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」と教え、これらの事は神から来ている事だと教えられたのでペテロは躊躇なく招待を受けた。カイザリアでは百人隊長が家に親戚や友人を招いてペテロを待っていた。ペテロが福音を語り出すと、聞いていた人々にペンテコステの時と同じ様に聖霊が注がれるという事が起きた。ペテロは彼等に洗礼を授け、神がユダヤ人と異邦人の間のバリアをキリストによって除かれた事を知ったのだ。イエス・キリストの十字架こそバリアフリ-の原点ではないか。「キリストこそわたしたちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14,15)
教会は敷居が高くて、とよく言われる。何が敷居になっているのだろうか。何とかその敷居を取り除くことはできないだろうか。きっと自分の中にあるバリアから除いていかなくてはならないのだろう。

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