2009年1月21日, 水曜日
『大通りに出て行って』
2009年は日本にプロテスタントの宣教が始められて150年という記念すべき年です。各キリスト教団でも様々な催しが計画されているようですが、7月には合同で大きなイベントが計画されています。これは教会にとって喜ばしい事なのでしょうか、それとも悲しむべき事なのでしょうか。私は個人的には「少し恥ずかしい」という思いがあります。福音の力は150年経っても人口の1%の壁を破ることが出来なかったのか、そんなことはあるはずがないのです。では150年をどのように捉えたらよいのでしょう。150年を祝うことも大事ですが150年を検証する事はもっと大事です。
「なぜ、福音の力は解き放たれなかったのか」
ここから目を背けては希望が持てないからです。
「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」(マタイ22:9)
これはイエス様の天の御国についてのたとえ話です。王子のために設けた披露宴に招待された客は誰も来ませんでした。怒った王様は僕(しもべ)を呼んで大通りに遣わしました。良い人でも悪い人でも、出会った人を片っ端から宴会に招かせたのです。やがて宴会場は人でいっぱいになりました。これが王子の結婚披露宴です。
何という披露宴でしょう。想像できるでしょうか。着飾った人の回りにホームレスがいて、裕福な人の隣にリストラされた派遣社員がいる。立派なスーツを着た大学教授の隣には先ほどまで道端に座って仲間と会話をしていた派手な若者がいるといった状況です。
私はこういう事が教会に起こらなくてはいけないのだと思うのです。かつてアメリカのカリフォルニアで起こった「イエス革命」と呼ばれるリバイバルの時には裸足のヒッピー達が教会にやってきました。すると伝統的な教会に慣れたクリスチャン達は、教会の絨毯が汚れるからといって、彼らに対して教会に相応しい格好を要求したのです。それは「ここはあなた達の来る所ではないよ」と言うのと同じメッセージでした。チャック牧師は「それなら絨毯をはがそう」と提案したのです。ここにリバイバルの要因をみるのです。当時に救われたヒッピー達の中から多くの献身者が生まれ牧師が誕生しました。
大通りに出て行って片っ端から出会った人を教会に招いたらこういう事が起こるのです。それを受け入れる覚悟が教会には必要なのではないでしょうか。