2005年10月 6日, 木曜日
『ここから始まった ~工夫次第で~』
9月3日、4日にかけて埼玉県狭山市にあるハイドパーク(現:稲荷山公園)という公園でミュージックフェスティバルが開催された。かつてそこには米軍のジョンソンエアベースがあり、その周辺のハウスには日本のロックミュージックを切り開いてきたパイオニア達が住んでいた。そのアーティスト達が再び原点に戻って2日間の大パーティーが開催された。そのパーティーには日本中から音楽好きが集まったが、それを一番楽しんだのは僕かもしれない。そこは思い出の詰まった僕の出発点だったのだから。
基地の周辺には軍人用のハウスが建設され、その中にアメリカ村と呼ばれる一角があった。軍の返還が進む中でアメリカ村も少しずつ日本人に開放されるようになった。それに目を付けたのがデザイナーや写真家、ミュージシャン達であった。僕は1971年にそのアメリカ村に移住し、新婚生活をスタートした。2LDKの一軒家で家賃は2万3千円。引っ越し荷物はベッドと食器、それにギターとステレオだけ。他に家具は無い。引っ越して初めての夜だった。カーテンもついていない只広い部屋の中で妻は泣きそうだった。新聞紙で窓を覆い、段ボール箱の上にシーツをひいてテーブル代わりにして食事をした。それでも16帖はある広いリビングにステレオを組み立ててレコードを聞き始めるとアメリカの片田舎にでもいるような気分になった。やがて近所の中古家具屋から米軍払い下げの安い家具を買ってきてようやく格好がつくようになった。
子供が生まれると裏に山があった我が家は最高の子育て環境だった。娘を連れて裏山を散歩して秋には栗拾い、春にはタラの芽取りを楽しみ、冬になれば家の前の傾斜の雪を固めてソリを楽しんだ。近くには入間川が流れ、釣りを楽しむ事も出来たし、つくしを採って料理をしたりも。それに裏山から枯木を取ってきて1年中庭でバーベキューを楽しむ事も出来た。収入は決して多くなかったが優雅な生活がそこでは出来たのだ。優雅ではあったが決して便利ではない。都心に出るのに1時間はかかるし、近くにスーパーも無い。しかし、工夫次第で優雅に暮らせる事を学ばせてくれたのがアメリカ村だった。(続く)