2001年6月23日, 土曜日
『年表』
K君は教会の日曜学校に通っていた。そこで聞く話はいつも奇妙だった。洪水で世界が沈没した話とか、海が真二つに割れた話とか、天からパンが降って来た話とか、死んだ人がよみがえった話とか、どれも信じられない事ばかりだった。K君にはそれが本当の話だとは思えなかった。だからイエス・キリストも白雪姫や桃太郎と同じだと思っていた。ある時学校の図書室を掃除していたら壁に貼ってあるあの年表が目に止まった。ズーっと見ていくと丁度0の所にイエスキリスト誕生と書いてあるのを見付けて驚いた。白雪姫の誕生も桃太郎の誕生も載っていないのに、なぜイエス・キリストの誕生が年表に載っているのだろう。僕もK君のショックが分かるような気がする。
年表といえばもう一つ思い出すものがある。あれは多分理科室に貼ってあったと思う。人類の歴史の年表だと思う。白亜紀とかジェラ紀とか恐竜の絵が載っていて第三紀中新世に突然とそれらから枝わかれして人類の祖先となる猿人が登場する。やがて二足歩行になり、現代人へと進化していくという年表だった。あれを見た時、自分の先祖があの猿につながっているなどとは考えられなかった。なるほど進化の途中にあるような人もいるにはいるがどうもおかしいと思ったものだった。やがて教会にいくようになって、人は神によって創造されたのだと知って安心した。
進化論は偶然から出発する。それは時計を作っているすべての部品をバラバラにして掻き混ぜたら偶然に時計になったというようなものだ。偶然という土台に立っているのと、神によって目的をもって創造された必然の上に立つのとは大きな違いがある。私はこの進化論こそ日本を愚かにしている張本人だと思う。人間の尊厳を偶然の上に建て上げることはできない。命の尊さを偶然の上に建て上げることも。自分が今生きているのは両親の避妊の失敗によって、たまたま存在しているのだと思ったら人生に希望が持てるだろうか。神によって与えられた人生だと知ったら例え小さくても命を与えられた目的のために人生を生きようと思わないだろうか。この進化論こそが日本に必要のないものだ。早くこの呪縛から解放されなければ日本の未来に希望は無いと思う。自分の先祖は猿だという人に安心してリーダーシップを委ねられるだろうか。日本の全ての学校から早くあの忌まわしい年表をなくしたいものだ。